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房一が道平を送つて行くことになつた。
「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」
「今、あんたの便をしらべてみたがね」
「ふん」
小谷はしばらく放つていた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
「何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ」
「さうですか」
で、この間に、いくらかそゝつかしいところのある、換言すれば、済んだことにはあまり気をとられない現実的な気質の房一は、たつた三十分前に盛子から聞いたときのあの驚きを忘れていた。一先づ用は片づいた。今日は別に往診もなかつた。で、かういふときの癖で、彼のあのはまりのいゝ廻転椅子に身体をうづめ、ぼんやりとした考へに落ちたのである。
診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つていた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
かうして、房一の帰郷開業はその生涯を劃する大きな変化でもあつたが、同時にあの古風な河原町の人達にとつても眼を瞠みはるやうな事件であつた。房一はめつたにない成功者として目された。地方の新聞には彼の苦学力行を賞讃する大きな記事が出た。
と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。
房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。