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「その姿は見えないのですが……。」
「うん、行くよ。――だが、夕方でいゝだらう」
神原喜作は、殊に自分が最初に口火を切つた責任者だといふ自覚があるらしく、あのづぶ濡れになつた下半身がいつのまにか生乾きになり、寒さのために硬はゞつた裾をばくばくさせ、方々を歩きまはつて説いた。練吉はその間、一種異様な緊張さを現していた。彼は、ごくたまに目瞬きをしていたが、顔はかつて見せたこともないやうな生真面目さで蔽はれ、時々さつと青ざめ、焚火の前に来ると俄かに紅らみ、絶えず房一の傍から離れなかつた。
「先生!」
房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞はにかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
徳次は答へることができないで、又あの不器用な笑顔をつくつた。それから、船がごとんと岸に突きあたるはずみに、房一の前にとび降りると、突拍子な調子で
若しさうだつたら、そのまゝおとなしく坐つてはいられまい。それは、皆の前で公然と頭を押へられた所を自認するやうなものだ。前例にもなるだらう。一度きまつたとなつたら又打破るのは容易ではあるまい。それは、河原町で今後医者として立つて行けないことを意味する。頭を押へられたきり、ついには逃げ出すより他はないといふ破目に陥るだらう。彼は思つた。
「なにしろこんな狭い田舎ぢやから、何事もねつうやる。それをやらんと後がうるさい。自然評判を落すといふことも起るかな」
ほんとにさうだ、忙しい身分なんだ、どうしてそこに気がつかなかつたらう、――と、徳次は瞬間本気にさう考へ、自分のはしたなさを悔くやんでいた。
練吉は卒業するとすぐ医専附属の病院に勤務した。今度は正文の指金で、釣合のとれた家から正式に嫁を迎へてやつた。男の子が生れたし、これで落ちつくかと思はれた。が、その三年間にも練吉の女狂ひはやまなかつた。おしまひには遊び人と内縁関係にある、子供まである酒場の女にひつかゝつた。しかも、その女を得たいために、その女と前夫とを別れさすための手切金まで出すといふ始末だつた。その間のごたごたでごく普通のお嬢さん育ちだつた嫁はたまりかねて出て行つた。その後で女とも別れた。出て行つた嫁の実家との交渉が永びいた。すると、その最中に又もや隣家の寡婦と関係ができたのが、先方に知れて、たうとう破談になつた。こんな風に別れる度に、手切金だの慰藉料だのいふ名目で、結局渋しぶりながら正文の手もとから金が出た。
「よし。今行く」
「玄関の手入れをどうしようかと云ふのですよ」