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何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がいた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫していた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
「いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ」
庄谷はほんのしるしだけにちよつと頭を動かしたが、やつと相手が誰だか思ひ出したらしく、その細い眼が急に徴笑した。
と、房一の近くで云ふ声が聞えた。今泉らしかつた。つづいて同じ声が
「ふうん、それもよからう」
その時、ふいに或る戸口から一人のひよろ長い男が、一度敷居につまづいてそのはずみで飛び出した工合に、明い路上に出て来た。帯がほどけてる、と見えたが、さうではなかつた。あんまり着物の前がはだかつて、したがつて腰から後裾にかけて長く引きずつたやうになつていたせいだらう。
さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しなのある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つていた。
「どこか悪いですかな」
「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」
「いゝ恰好で!」
「ふん」
宿の者はこういっただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしていた。